ご覧くださりありがとうございます。この記事には死にまつわることが書いてありますので、嫌悪感のある方はスルーしてください~
もくじ
1.未来を思い出す
2.言葉を失った光景
3.別人になった叔父
4.延命治療の陰で
人はたいてい、過去のネガティブな体験をしているとき、未来の願望を打ち上げています。
人を動かす原動力は、嬉しい・楽しいといったHappyな感覚よりも、強い怒りや悲しみ・憤りなどUnhappyな感情だと思います。
(これは嫌だー!)というネガティブな感情の影で、(だから私はこうしたいんだ)(こういう世の中にしたいんだ!)という、ポジティブな願望を無意識的に発動してるんですね。
なので未来の夢は“思い出す”というのが本質です。
今の私の原動力は何か?と考えたとき、しょっちゅう脳裏に浮かんで来る光景があります。
思い出したくないけど脳裏から離れない。
それがこの道に進もうと思った原体験だろうなぁと思います。
18歳のとき。高校生でした。
私は父親に連れられて病院に行きました。
数ヶ月前に父の兄(私にとっては叔父)が脳溢血で倒れ、救急車で運ばれたことを聞いていたので、お見舞いに行くんだと思いました。
100床ほどの民間病院。夜だったので外来はがらーんとして暗く、病院特有の消毒液の匂いと、ちょっとカビ臭い匂いがしたのを覚えています。
外来の待合に父の姉(私にとっては叔母)がいました。叔母は腰が曲っているため私が見下ろすほど小さな体で、さらに年を取ったように見えました。部屋に入る前に父親が入り口で3人の名前を記入し、小声で看護師さんと何か話していました。
病室はガラス張りでした。部屋の前の小部屋に入ると、白い割烹着のようなものを着せられ、マスクを付けさせられました。そして父が私にこう言いました。「あんまり長い時間はおられへんで。ちょっとびっくりするかもしれんけどな」
壁もカーテンもベッドもみんなクリーム色で、ぼんやりした印象。ベッドがいくつか並んでいるけど、みんな寝ているのか顔は見えませんでした。あまりにも静まり返っていて、非日常の雰囲気でした。
どことなく重い空気を感じながら、スリッパを履き替えて中にー。父の後ろを歩いてあるベッドのそばに行き、そこに横たわっている人を見て私は呆然としました。
(だれ?これ…?)
中年の痩せ細った男性が上を向いて横になっていました。腕は2つに曲がった状態で、足も膝が曲った状態で固まっていて、全身がキュッとなっていました。頬や体は痩せこけていて、小人の様に小さく縮こまっていました。
「こうちゃんやで。こんな姿になってもうたんや。。」と涙ぐむ父の声。
こうちゃんは叔父の名前です。叔母は弟の頭をそっと撫でながら「かわいそうに…」とつぶやきました。そして「私が救急車を呼んでしまったばっかりに、こんなことになってしもてなぁ。ごめんやで。」と。
喉には青いチューブがつながっていて、プシュープシューと規則正しく動いていました。叔父の身体は半分ほどに小さくなっていて、目を開けることも声を出すこともなく、ただただ眠っているようでした。
(生きてるん…?!)
(死んでるん…?!)
(え、これ、おじちゃん…?!)
首のあたりから点滴のチューブが出ていて、手にも腕にも足元にも何かチューブがつながっていて、喉から出ている青い太いチューブは大きな機械につながっていました。
他の四角い機械からはピッピッピッという音が鳴り続けていました。薬の匂い?オムツの匂い?体臭?独特の匂いが鼻につきました。
バイトに明け暮れていた高校生の私は、あまり親戚付き合いをしていませんでしたが、それでもお正月とお盆は父に連れられて叔父や叔母や祖母に会いに行っていました。
叔父は休みの日はいつもお酒を飲んでいてご機嫌でした。
血色のいい顔で、布袋さんのようにお腹がぽってり出ていました。
私が行くと「ようこちゃーん、元気しとったか?」と、いつも満面の笑みでお酒のおつまみを勧めてくれるので、私は子供の頃からお酒のあてが結構好きでした。
(あの、おじちゃん…?!)
あまりにも変わり果てた姿に私は言葉を失ってしまいました。
いわゆる植物状態。
今は差別用語だとして使わなくなりましたが、その頃はそう言っていました。
確か叔父が運ばれたのを聞いてから3ヶ月ほど経っていたので、叔父はずっとこの状態で過ごしていたんだ…と思うと胸が締め付けられました。
父と叔母の会話から、良くなって元に戻れる状態ではないことを察しました。
これから先のことは触れてはいけないような気がして、私は言葉を飲み込みました。
1980年代の話です。
叔父は同じ状態のまま、3年間生きました。
その影で弟夫婦が危機に陥り、姉が死ぬまで後悔することになろうとは、叔父は夢にも思わなかっただろうと思います。。
今も病院では当たり前のようにある光景です。
誰も望んでなかった未来がいつのまにか出来上がっていく。
延命をして3ヶ月、6ヶ月経った頃、滾々と眠り続ける患者さんのそばで呆然と立ち尽くす家族の姿を、私たち看護師は見ています。
高校生の頃の私は、自分が看護師になるとはまったく思っていませんでした。
ですがいつの間にか薬品会社ー医療事務ー看護学校と進みました。
まだ人の死に立ち会ったこともない高校生が見たショッキングな光景に、無意識はずっと引っ張られていたのでしょうか。
命を救えばそれでいいの?
長生きすればそれでいいの?
看護師になって30年、転々と自分の居場所を探し求めていた理由が少し観えたような気がします。
この記事を書いた人
看取り対話師協会主宰
一般社団法人日本ナースオーブ
代表理事/せのようこ
看護師経験30年
認知科学・コミュニケーションの講師を15年務める。より良いお看取りを日本に広めるため、経験10年以上の看護師チームで保険外訪問看護サービスを開始。
代表よりご挨拶