ある日の看取り対話師研修ZOOMディスカッションのときのことでした。看護師のひとりが母親のことを話し始めました。病気の診断を受け、家族だけ呼ばれて余命8ヶ月であることを告げられました。
2022年のがん患者数は100万人を超えています。それだけ多くの人が生命の残り時間を告げられるのは、何か意味があるのだろうと思います。私たちは何に気づかねばならないのでしょうか。
命の残り時間を宣告されると、私たちはどうにもならないほど悲観します。筆者自身も、父が余命1ヶ月の告知を受け、自分自身がどうにもならなかった経験があります。まだ会社勤めをしており、自覚症状も無いときの告知だったため、突然のことでした。
ですが、これが3ヶ月であろうと、8ヶ月であろうと、1年であろうと悲しいと思うんですね。ご本人は「なんで私が?」「なんでこんな目に…」と思うでしょうし、ご家族も「なんでこんなことに…」「できるなら代わってあげたい」と思うだろうと思います。
ただ、悲観したまま貴重な時間を終えてしまうことの方が、悲しいのではないでしょうか。残された時間が限られているからこそ良い時間にしたい…とは思っても、実際はなかなか難しいと思いますが、後悔しないためにはどこかで考えを変えていかねばなりませんね。
そして私たち看護師の経験では、悲観している状態では決して病状は良くならないような気がします。そしてわりと心の状態が安定すれば、それも病状に影響するのを実感しています。告知を受けた本人が自分で考えを変えるのは難しいですが、もしかするとご家族の関わりによって、心の持ち様は変わるかもしれません。
あるアンケートの結果を見ました。医師に対する質問が載っていました。
「あなたがもし病気で死ぬなら、どんな病気がいいですか?」
という質問でした。
さまざまな病気を診ている医師が人生の最期に選ぶ病気は、どんな病気なのでしょうか。
それは「がん」なのだそうです。
その理由の多くは「人生を整理する時間があるから」。
そう、命の残り時間を告げられるということは、唯一『時間が与えられる病気である』ということー。
その時間に何をして、何をしないか。
そして何を消去し、何を残すかー。
時間が限られたからこそ、本当の自分に気づくことができる。
その時ようやく人生を取り戻し、たとえ病気であっても健全な生き方ができるようになるのかもしれないなぁと思います。
「がん治っちゃったよ!全員集合!」という団体があるのをご存じでしょうか?コロナ以降規模を縮小していますが、以前は全国各地でイベントが行われ、数百名~千名くらいのガン患者さんが集まっていました。
実際は、“治ったかどうか”が問題なのではなく、自分自身で治そうとしているかどうかが問われているのだと思います。発起人の杉浦貴之医師は28歳のとき腎臓がんで余命宣告を受け、それから20年以上生きていらっしゃいます。
直接会って聞いたわけではありませんが、おそらくそこに集まっている方々は、“生き方を変えた人たち”が集まっているのだろうと思います。
今までより家族を大事にしたり
今までより自分を大事にしたり
仕事より楽しみを優先したり
得ることより想い出を大切にしたり
物質的なものよりも、目に見えないものを大切にし始めたのではないだろうかと思うのです。
中には、行動で表す人もいるでしょう。
食べるものが変わった
毎朝、歩くようになった
お参りするようになった、など。
結果的には、その行動を通して、考え方や在り方が変わったのだろうと思います。
杉浦医師は「仮面を脱ぐことだ」とおっしゃっています。
心理学では問題解決の考え方をするとき、「なんで?」という自分への質問をやめて、「なんのため?」と自分に問いかけます。
人は、無意識的にですが、おそらく死期を悟っているような気がします。そして親は、おそらく何か”意図”があって、その時間を家族に与えているような気がするんですね。
違うかもしれないし、そうかもしれない。看護師であっても、学校で死を学ぶことはできないですし、亡くなった人から教わることもできません。亡くなる前の人と関わり、経験することによって自分なりに解釈していくしかないんですね。
最期にその看護師に問いかけました。「残された時間が2週間ではなく、8ヶ月なのは何のため?」「お母さんは何を求めてると思う?」と。
彼女は「思い出しました!現状に振り回されて大切なことを忘れていました!」と安堵した表情に変わりました。お母様のいちばん近くにいる彼女が安心すれば、自ずとお母様の状態が良くなっていくのは言うまでもありません。親子はそうした目に見えない糸でつながっているのです。
さて、その時間は失った時間でしょうか? それとも与えられた時間でしょうか?